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橋本努の音楽エッセイ 第5回「ポストモダンの時代に背を向けた重厚な世界」

雑誌Actio 200911月号、23

 


  日本が軽やかな消費文化を謳歌していた1980年代に、ニューヨークのブルックリンでは、ジャズの新たな革命期を迎えていた。アメリカ社会の衰退という危機感を背景に、若き知の怪物たちがストラータ音楽院に結集。のちにM-BASEと呼ばれる独創的な演奏法を次々と展開していった。その記念すべきアルバムが1989年に発売されたCipher Syntax(ドイツのWinter & Winterから2002年に再発売)である。

 このアルバムはあらゆる点で完成度の高い作品だが、驚くべきはさらにその四年前に発売された、スティーヴ・コールマン・グループの「マザーランド・パルス(Motherland Pulse)」。このあまりにも手を抜いたジャケットに失望することなかれ。80年代の前衛ジャズを代表する傑作、いや、時代を代表しない稀有の傑作であろう。独創的なメロディ=ソロの展開、細心の技巧、緻密で完璧な構成、大胆かつ母性のように安定したサックスの音色。これだけ斬新な演奏であるにもかかわらず、演奏家たちには、時代の先を読むという気負いがない。すでに母なる大地に達しているのだ。その幽玄な神秘性は、聴く者を不思議な無時間空間へと連れていく。ポストモダンの軽さとは無縁の、重厚な世界である。このアルバムに参加している二人の女性、ジュリ・アレン(ピアノ)やカサンドラ・ウィルソン(ヴォーカル)の若き感性にも、すでに王者の貫禄がある。このCD80年代の同時代に聴かなかった私は、あとで後悔することになった。もし同時代に聴いていれば、当時の私を根底から変えたようにも思うからだ。

 スティーヴ・コールマンによれば、M-BASEとは、構造化された脱テンポ化の基本的な配列のことで、演奏の即興と音階の構造を組み合わせながら、そのいずれも変化させて、音楽の今日的な言語系を生み出そうとする。それはつまり、音楽を創造するための方法であって、概念的にも技術的にも自生的に発展していく。最高の成果はおそらく、Steve Coleman and Five ElementsによるRhythm People (The Reconstruction of Creative Black Civilization) [BMG 1990]であろう。これはサブタイトルにもあるように、黒人文明の創造性を格段に高めた記念すべき作品だ。ジャズ史上、驚異の達成といってもいい。

 最初にこれを聴いたときは、何が展開しているのだかよく分からず、ただスリルと興奮と、そして大いなる予感を感じた。あまりにも高密度な緊張があって、次々と新しいテーマが繰り広げられる。ドラムやベースを含めて、すべて変拍子。しかもどの楽器も基礎となるリズムを反復するということがなく、つねに新たなコンビネーションへと向かって、互いに自己主張を繰り広げていく。この演奏に追いつくために、私は何度も聴いて、いまだに相当な時間を費やしている。

 孤高の鬼才スティーヴ・コールマンは、その後フランスに向かった。そしてその演奏は、ある種の宗教的な境地に達した。最近の傑作は、2005年の2枚組「象徴としてのジャズ」であろう。大部分はブラジルで、パーカッション・グループの「コントラ」とのコラボで録音されたという。とくに2枚目は、多文化主義の混沌が生んだ新しい言語の誕生だ。相互に織り成される音の響きに、私たちは自身の内面を、深く見つめる機会を得るだろう。